昭和48年02月01日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
私共の神様の本当のおかげを知らないために、思い違い、ね。所謂考え違い。そういう思い違ったこと、または考え違いな事が、ね、積もり積もって所謂前々の巡合わせで難を受けおるとこう。難儀という物、難儀の根本とでも、ね。困った事の所謂その根本。それはもう、難儀と名のつく一切の難儀ですよね。それが例えばそういう自分の家でもないのに、自分の屋敷でもないのに自分の家と思うたり、自分の屋敷と思うたり。ね、その上天地に言うならば、何と言いましょうかね。
天地に対するまあ冒涜とでも申しましょうか。それを例えばそれこそ指一本押すだけでも天地金乃神様のおかげによらない所はどこもないにも関わらずです。日柄が良いの方位がどうのと言う様な、所謂、愈々是は考え違いだ、思い違いなんだ。そういう事はない。ね、それを私共がそういう考え違いをして、前々の廻りでそういう間違った考え方が巡りを積み重ねて来て難を受けおると仰る。それが難儀の元になっておるとこう仰る。ね、そこで今日は私は、この難儀を受けるその元と言うのがです。
今言う様な考え違い思い違いですけれども。初めてこの教典の中にね、この巡りという言葉が使ってあるのはここだけです。巡合わせと。随分金光教では、巡りという言葉を使いますよね。難儀ゃ巡りのせいだと。ね、だから恵みのお取り祓いを先ず頂かにゃと言うて、もう沢山巡りと言う事を使うのにも関わらず、例えば一心とか真とかと言う様な言葉やらは、もうあらゆる所に出て来るのですけれども。
この巡りという言葉は、このこれだけの教祖様の仰っておられ、教えておられる御教えの中に、ここだけにしか出て来んです。けれどもそれが難儀の元とこう言われる。だから、その難儀の元を断たなければいけん。ね。2月は逃げるとも申します。ね。一月は行かれる、二月は逃げるという。ね、3月は去られると。私はこんな事を、高芝さんのもと田主丸おった時分の近所から安武さんか何かていう人が参って来よったですね。あの人がこれは言うたこと。ほおそげな事があるですか。
その息子さんの嫁さんを貰うのか、やるのかどっちかでした。そしたらその一月は行かれる、二月は逃げるて三月は去らるる、四月は死ぬて言うけんで、何時したなら良かろうかち言うけん私が、そげな事言うならアンタいっちょんする時はないよち私が。五月はごてつく、六月はロクな事なかちゅうごたる風に言いよんなら、貴方もう全然良か時はなかじゃんのち私が言うて、まあ言うた事がありますがね。一月は行かれる、二月は逃げるというような月なんです、いわばね。ね。
ですから一つお互いが、おかげを頂いた、おかげに逃げられないような、二月はとりわけ、一つここんところに焦点を置いて頂きたいと思うんです。ね。昨夜は月末の月づえ御礼信話会が御祈念の後に持たれました。毎月このお広前で、いわゆる信話会を開きます。それも神様への御礼のつもりで皆が頂いたおかげの話をすると言うのです。それはもう今月寒修行中にも入ってましたし、家族勢を揃えて信心させて貰う。
日頃はお参りしないけれども、お参りさせて頂いてもう本当にもう素晴らしい、所謂おかげ話がございました。けれども私が寂しいと思った事は、ね、今月はこういう信心を頂いて。もうこれだけは私の信心の血になった肉になった。この教えによってこういうおかげを頂いたという話が、まあ3~4人ぐらいしかなかった。私がいつも申します、おかげも頂かんならんけれどもです、それよりも頂かなければならんのは信心だと言ってる。ね、皆さん、おかげも頂かなければならんけれども。
それはもう勢を揃えてから頑張って一生懸命参って来んならおかげは絶対頂くです、たまがるごたるおかげを。ね、それ昨日の発表会にそれを感じた。ね。けれどもその頂いたおかげだけだけではです、今日の私が言いよるおかげが逃げるです必ず。ね、ですから信心を頂くという事。これはおかげを頂くという事よりも、もっと素晴らしい事なんですから。ね、この2月の間には、色々と御教えを頂いたが。これとこれとこれだけは忘れられません。これだけは愈々私の信心の今月の支えになって来た。
そして信心を進めさせてもらいよったら、かくおかげを受けたという話が聞きたかった。けれども、さすがに3~4人の方達は素晴らしい発表をなさいました。ね、そういう信心。皆さんどうでしょうか。先月、寒修行中に頂いて、残っておる信心。これだけは、自分の血になった、肉になったというのがあるか、後から一つ考えてみて下さい。出なかったら、おかげは頂いて来たけれども、信心は頂かなかった事になるのですよ。参ったら、おごだりしよるから信心頂きよるちゅう事じゃないです。ね。
ですからおかげも十分頂かんならんけれども、より頂かなければならんのは、信心なんです。まあダイジェスト的に昨日の話を致しますなら。ね。何と言うても一番素晴らしい、まあ今月の圧巻とでも申しましょうか。ね、先月のね。何と言うてもこの大改まりという御理解を頂いた。これが第一に素晴らしいという人がありました。大改まり信心は日々の改まりが第一と仰るが、改まると言う事はどう言う事かと言うと。
おかげをおかげと思う。物やら金やらの方にばっかり、事柄が順調になって行くと言う様な事だけに重きを置いておった信心からです、和賀心が神の方へ向かった。信心とは和賀心が神に向かうという事だと分からせて頂いて、おかげの方から回れ右をした姿が大改まりだ。これが大たい大きな改まりだ。ですから神に向かうて行くのですから、ね、神になる為の邪魔になる物は、これは枝でも葉でもやはり、自ずと取って行かなければおられない事になって来る。ね。
一番発表の中に多かったのは、やはり五つの願いでした。ね、いわば成り行きを大事にさせて頂く。御事柄として受けて行く。これはやっぱ20年間みなさんが身についてるから、それを皆さん、そういう生き方をした事を発表しておられましたがです。ね、これはね、真の信心のやはり土台になるもの、基本になるもの私共が20年間してきた信心は。ね。神様の、ね、様々な問題がです。それをその成り行きを大事にしながら、ね、それに神様の御働きとして御事柄として受けて行くという生き方。
これはおかげにならん時にはね、その成り行きを大事に使用がまだ悪かっです。御事柄として受けていないのですから、もうこれに徹して行く事になったら、絶対おかげが頂かれるです。おかげが受けられておらんというのは、ここにまだ徹していないのです。ね、そういう信心が基本になるんだと。ね、そして段々分からせて頂いた事はです、ね。信心が分かれば分かるほど、愈々お役にも立ちたい。ね。
神様の願いにも応えたい。今日の御理解で言うとです、ね、末々繁昌いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子。上下立つ様にいたすという。私共も助からなければならんが、神様も立ち入って下さる、助かって下さらなければならないという事が分かってくる。そこでですなら今ここで言いよる、和賀心時代を創るという、神様の一番の願いであろうと思われる、ね、世界に和賀心時代を敷くと言った様な信心の、一つの運動員にもならせてもらおうというくらいな願いを立てなければならん。
建てるからには、まず健康を願わなければならない、家庭円満も願わな、頂かなければならない。同時いよいよ繁昌のおかげを、子孫繁昌家繁昌のおかげを頂かなければ出けないのだと言われる。そこでこの五つの願いというものが、どうでも一人じゃいかん、家族勢を揃えて、頼んでからでも一つこの事を願うて行こうじゃないかという事になって来た。昨日私、その五つの願いの中で、色々発表のあった中でですね、私が質問したんです。真実の御用、4番目にありますね。
真実の御用が出けますようにという、例えば下りになって参りますとですね、皆さんがちっと検討違いしておられるようであった。それも本当。ね、2~3の方が発表しておりましたが、本当に信心をしておかげを頂いて。ね、お供えでんどんどん出来るごつなるようなおかげを頂きたい。真実の御用と言うのは、もう言うならば神様の事だったら、もうてい身的にです。ね、身を捧げてその事に、御用に打ちこむという事だという風に頂いておられる。皆さんどんなに頂いておられるでしょうか。
それも真実の御用です矢張り。けれどもそれよりももっともっと大事な事は皆さんが持っておられる仕事のことなんです。ね。炊事場に立つ人があるだろう、職場に立つ人があるだろう。ね、田や畑に立つ人があるだろう。それぞれの例えば仕事をいよいよ有り難く、忠実にさせて頂くことが出けますようにという事なんです。仕事と言う事は、事に仕えると書いてある。ね、だからその自分のしたしておる所の仕事に対する熱意と言うか。ね、同じに楽しみと言うか。有り難いと。
昨日その事で私が申しましたけど、これは支那の諺に。ね、砂糖砂糖桶を舐める事でも、それが仕事ならば嫌になると言う様な意味の諺がありますシナに。ね、砂糖桶にまだ砂糖がいっぱいついてる。それを舐める事だからこんなに甘い、嬉しい楽しい事、まっ喜ばしい事はない訳です。甘いおかげを頂こうと言うのだから。けれどもそれが仕事と名がつくとです、嫌になるち言うんです。ね。
私達が例えば、あの時たまお百姓さんの手伝いに行きます。取り入れでも田植えでも、それこそ楽しゅう出ける。けれど、お百姓さん自身はもうとても、こげな仕事は孫子にどんさせるもんじゃなかっちゅうごたる、それでもせにゃ食べられんけん、百姓しよるといったような事ではいけないちゅう事。その事柄にその事柄に仕っ仕えると言う事。神様へ奉仕をするという、仕えるという事。これが仕事。
真実の御用が出けますようにという事は、私が頂いておる所の言うなら天職をです、天職足らしめると言う事なのです。と言うて説明したら、案外その事は皆がわかってなかったですね。お願いしよるばってん中身が分かってない。なるほど子孫繁昌家繁昌の大みかげも頂いてです。ね、沢山のお供えでんどんどん出来るごたる、御用が出けますようにという事も、確かに真実の御用です。けれどもそれはね、おかげを頂くという御用であって、お徳を受けるという御用じゃありません。
まあハッキリは言われんけれどもです。ね、本当は自分の頂いておるその仕事を本当に天職として頂けるような、そういう御用をさせて下さいというのであります。ね。次に、辛抱という事。その前の日は、いわゆる起きて来る事柄に、いかに味を付けるか。その味の付け方次第ではです、どんなに嫌な事であっても、困った事であっても、それが有り難い事になって来るんだと。
信心味付けの具合を一つ覚えなければならないという御理解を頂いた事。その翌日にです、その絶対間違いのない、是なら間違いのないという味のつけ方がです、是を巡りのお取祓いとして頂く。またはそれを修行と思うてと言った様な生易しいものではなくて、もうそれは神様が私共一人ひとりに求めた給う修行であると信じて、それを頂く事だと言う事。これはこんな素晴らしい味の付けようはないと言う事である。んなら神様がもう絶対の修行として求めて下さる。
ならその修行はね、どういうなら御都合の修行かと言うとね。氏子に力を与えたい、よりおかげをやらせ下さりたい、よりお徳を下さりたいという願い以外にはないという事。だから修行で、もう修行として受けよりますと言う様な事ではね、それが爆発する。修行と思うて受けよるばってん、あんまりきつくなってくると、もうそれが爆発して来るです。それじゃいかん。もう修行なんだ。だからあれが今日も結構な修行させて頂いて有り難うございましたと言う事になるの、どんな修行苦しい事であっても。
辛抱し抜かせて頂いて良かったと言う事になって来るの。ね。そう言う様な、例えば1月中に頂いたその信心をです。もうこれだけは払うてん、どうでんこうでん、やっぱ自分の物に、なっとかなければいけないねと言うて、まあ話した事ですが、皆さんどうでしょうか。その1月のそういう、ね。もう一つにありましたね。あの楽という事。人間の楽という事。最高の楽と言うのは、はた楽という楽だという。
御理解を頂いたでしょう。もう道理に合うた信心も沢山ありますけれども、おかげに直結する所の、道理に合うた信心とは是が最高です。おかげに直結する所の楽なんです。それははたを楽させる人に喜んで貰う。はたを楽をさせるという楽なんです。それはタライの水を向こうに押すようなものだと。自分が先に楽になるじゃない、人が楽になるように、喜ばれるようにと言うて、たらいの水を向こうに押すようなもの。だから返ってくるのは自分の方へガバッと返って来るという道理に基づいてです。
楽と言うのは、なるほど自分が楽をしようと思うてする楽ではつまらん。神様がさせて下さる楽が最高の楽だというこの事。ね、そう言う様な事が先月のまっ言うならダイジェスト的に昨日、まっ皆さん話したり私が説明させて頂いたりした事なんです。皆さんどうでしょう。今の様な事柄が心の中に残っておったでしょうか。残っておらんなら今日改めて、もう一つその事をです。ね、是はおかげを頂いて行く為に、どうでもあの今申しましたような事が皆さんの物になっておらなければならんのです。
そして頂くおかげを、今月は逃がすまいという信心。難儀と言うのはです、ね、今日だからここんところに焦点を絞って、めぐり合わせで難を受けおると仰る。難儀の元と言うのは、そういう思い違い、考え違いから起きて来るんだという事なんだ。そこで一つ本気でね、一つシャンとした信心を、させて頂かなければならないという事です。昨日御祈念の時に末永先生が、今日は上野先生が非常に体が悪うなさるから、今晩の信話会は御無礼すると言うて、休まれましたとこう言う。
ああそうねと言うてその事をお取次ぎさせて頂きましたら、一本のロープを頂いた。綱を大きな綱。その綱に洗濯をした着物の様な物をですね、こうそれに巻き付けるようにして干してある所を頂いた。洗濯もしたけれども後は、言うならシダゴダで成程乾くかもしれんけども、乾き上がった所でシワだらけで。ね、して乾きも遅いですこう綱にこうやって巻き付けちゃる。だから信心を綱という事は、神の綱という意味でしょう。神様を外す、外しゃきらん。信心を止めきらんけれどもです。ね。
そういう言うならシダゴダの信心ではいけないという事。はあ今日はもう月末の一番お礼を申し上げなければならない、しかも信話会には一言ぐらい自分の頂いた発表でもさせてもらわにゃおられない、と言うのでごそごそ這いながらでも出て来るような気持ちにならんかなと私思うた。御無礼して休むとこう言う。そして愈々信話会になったら、先生ちゃんと紋付袴つけて出て来とる。ね。
なら神様にはその事をお礼申させて貰いよったら、私あのタオルを絞った時に、必ずピンと下をピシッとこう引っ張ってから、もう明くる日は、乾いた時には糊付けたごとキチッとなっとらにゃ好かんです。ただいきなりボンと掛ける人がありますね。こうこうなっとる、横たれになったごたる掛け方しとる。それはそれこそもうほんなボンズの下げたごつしてかけとる人もある。もう私はふるふる好きはせん。
もう手のいる事でも何でもないですから、掛けたならばピシャッと下んところばピシッと合わせて、こう引っ張っとくとですね、もう新しいタオルのごと明くる日なっとるです。そこんところを頂くとですよ。ね、例えば洗濯をさせて、なら、先生が発表しておりましたがです。もう今日はいよいよきついから御無礼すると言うたら、公ちゃんまでも、なら私も御無礼しようかちこう言う。
だからこげな事っちゃあいかんと思うてから、もう羽織も袴も取っとりましたけれども、また改めて羽織を着、袴を履いて出て来ましたと。それがシャンとした信心。皆さんあのせっかくですね、おかげを頂くならね、そのシャンとした信心をさせてもろうて、シャンとしたおかげを頂かにゃいけんです。だから修行生の方達に夕べそれを申しました。皆さん例えばね、腹が痛かったり、頭痛かったり寝ちゃならんと言うとじゃないばいて。けれども、そういう事はね。
本当に只今修行中という人、そういう自覚に立っとるならばあの、それを置いてやってのけなければいけんばいて。何時まっでん、そげな事が続くという事じゃない。成道という事は、道がなると、成就するという事。お釈迦様が例えば菩提寺の下にああいう難行、苦行をなさった。けれども、その苦行が終わられた後には、やはり奥様にも会われた、子供様も寵愛されたという事実がある。成道、一つの修行を成就するまでは、一つ歯を食い縛ってでもシャンとせにゃいけんよと。ね。
私は今修行中だと思う人達は、そこんところを徹底しなければです。ね、しだごだにしたんでは、ちょうど、信心は話しはきらんけれども、それが巻き付けてからボンズナに掛けておるようなものなんです。そういう意味で一つシャンとした信心をさせて頂かなければならない。ね、先月から頂いて学んだ信心を土台。今まで何十年間頂いて参りました信心の基礎とも、基本とも思われるところの成り行きを大事にする。
御事柄としての受け方。ね、それで、まだ皆さんがおかげを受けられんと言うとる、思うとる事があるならばです、まあだ成り行きを大事にしとらんのだ、御事柄として頂いていないのだ、徹していないのだと頂くが間違いない。これに徹したら絶対のおかげが頂かれる。その上に五つの願いがあり、ね、そして、なら先月は只今私が申しましたような、信心のいよいよおかげを頂いて行く、信心を頂いて行く、徳を受けて行く事のためのポイントになるような、いくつものなら御教えを改めて頂きなおして。
そしてこの二月という月はです、ね、難を受けおると仰るそのおかげ、頂いたおかげが逃げないような今月でありたい。ね。決してあの悪いことをする人はですね、本当に悪人面しとるという事はないです。かえって恋えらあしか顔しとっとがおるでしょうが。何か国際的な犯罪を犯した人の、この頃テレビで写真が出とったが、とても中々好男子ですもんね。この人がそげな悪い事するじゃろうかというごたる顔しとるです。言うならばです、めぐりというものは決して悪魔のような顔はして来ないという事。
難儀の元を作るような事は、それこそ甘い換言を持って。またはそれこそ、ね、優男とか、優女子の風をしてやって来るという事。ね、だから換言に乗っちゃならない。ね。いつも心を引き締めとかなければならない、見分けがつかん。今月は一月に頂いて参りましたおかげをです、本当に、おかげ足らしめる月でありたい。それに二月は逃げるで、おかげが逃げてしもうたと。そして反対に、難を受けたと言った様な事のないような月でありたい。ね、その為にはです、私共が、ね。
いわゆる今日のここで初めて、このめぐりという事を、教祖様がお使いになっとるのは、この御理解3節だけなんですけれども。思い違い、考え違いという事を何時も考えてみて。思い違いじゃなかろうか、考え違いじゃなかろうかと。ね。またその難儀を促進する、促進すると言うかね。ね。あの、テレビで交通事故がないようにという時に、このあの悪魔の老婆がここで手招きしよるところがありましょうが。ね、災難に遭うごと、こうやって手招きしよる。自動車にしかるごと手招きしよる。ね。
だからその難儀の元と言うのが、そういう例えば絵で見るようなですね、鼻の高い目が鋭い。口はここまでも裂けとると言った様な風をしてやって来ないという事。むしろそれとは反対にです、もうただ顔を見ただけでも言うならばです。あの信用されるような感じで難儀の元というものはやって来るんだと言う事。ちょっとした油断が、所謂難儀の元になるのですから。そこの所の油断をせんで、ね、おかげを逃がさんような一つ信心を、今月は一つ、そこに焦点を置いて頂きたいとこう思います。
同じにもう一偏、先月頂いた信心をです。今日私が申しました所だけじゃないですよ。皆さんがここは頂いた、ここは有り難かったという、そういう信心をです。ね、今月逃がさないような信心。ね、を、愈々身に付けていう、信心の言うなら本格派とでも申しましょうかね。所謂おかげも頂かなければならんけれども、信心はより頂かなければならんというおかげを頂いて貰いたいと思うんですね。
どうぞ。